2013年2月2日土曜日

甦る遍路道

先に言っときますが今回のブログは長いです。
途中で諦めることなく最後まで見ていただけると嬉しいかな?

本日、地元の加茂谷で『みんなで歩こう かも道を!!』というイベントが開催されました。
「かも道」って何だ?!と思われると思いますが
現在、20番鶴林寺から21番太龍寺へ向かう遍路道は
大井町の集落まで下って水井橋を渡り太龍寺に登るようになっています。
ただ橋のない時代に那賀川を渡った時、対岸に上がれる場所が
加茂町の河原だったと思われ
そこから太龍寺に登る最初の遍路道が存在するのです。
それが「かも道」。
以前は地元の住民が太龍寺に登る道としても使われていましたが
車で登る道や対岸に渡る橋が整備され、現在の太龍寺道が主流になった事で
この「かも道」は、ほとんど使われなくなり
そして荒れ放題になってしまっていたのです。
ただ、この「かも道」には多くの史跡や逸話が残っていて
古道としての景観も残っている素晴らしい道なのです。
なんとか復活させようという機運が高まり荒れていた「かも道」が
再び整備され歩けるようになったということで
今回この『みんなで歩こう かも道を!!』のイベントが開催されたのです。
前置きが長くなりましたが、いよいよスタートです!
雨の予報が出ていたので心配しましたが、いい天気に!
60名ほどの参加者と共に歩きます。
ここが登り口。
この石柱は「丁石」と呼ばれ太龍寺までの残りの距離がわかるようになってます。
1丁=109m、41丁なので4,469mということで
加茂町にある寺の登り口から太龍寺まで約4.5㎞を歩きます。
これは「石室(いしむろ)」といわれる石組みの祠。
本来は、この祠の中に33観音像の一体が置かれているハズなのですが
現在その像は登り口の寺にまとめて置かれています。
33観音なので本来、祠も33箇所あるハズなのですが
現在22箇所が確認されていて
そのほとんどが、こうして崩れた状態になってます。ザンネン!
これは「基壇(きだん)」と呼ばれているもので上部には
台座のみが残されていることから33観音が置かれていたのかも?
この基壇は4箇所確認されているようです。
この辺りは竹林の道で通称「青の遍路道」と呼ばれています。
かも道は昔の石灰岩の採掘場へとも繋がっていて
こういう石灰岩で作られた石室もあります。
これは33丁石なのですが建立された年代が側面に刻まれています。
なんと南北朝時代の貞治(じょうじ)4年=1365年。
この正面の文字は側面の文字が読みにくくなって
江戸時代に掘り直されたものなのです。
ほとんどの丁石は古い文字の上に掘り直されてしまっているのですが
この33丁石は別に掘られているので南北朝時代の文字がなんとか確認できます。
この辺りは落ち葉でフカフカの道なのですが
11月頃の紅葉の時期には「赤の遍路道」と呼ばれているようです。
これは32丁石。
分岐点に置かれているのですが
よく見ると「右かも」と書かれています。
そう、この丁石が「かも道」の由来のとなった丁石なのです!
これは弘法大師坐像、文化2年(1805)年作。
側面に「これより つるへと とびなされし おあと」と書かれていて
ここから弘法大師が鶴林寺へ飛んだという伝説があるのですが
この伝説を証明するかのように台座に強い力で
杖をついた跡が残っているのです。
この辺りは石灰岩がゴロゴロしていて「白の遍路道」と呼ばれています。
そして今日は少し霞んでいますが条件が良ければ
遥か和歌山を望む絶景ポイントもあるのです。
これは「拳石」。
この道を弘法大師が通っている時この岩が大師の方に転がって来た際
左の拳で岩を殴り止めたという逸話があります。
拳の跡も残ってる?!
もちろん相棒が殴っても止まりません(笑)
この辺りは人の手が入っていない原生林の道。
古道!という感じがヒシヒシと伝わります。
これも逸話のある岩。
「にじり石」と呼ばれていて太古の昔、この岩は登り口にある寺にあったそうで
少しずつニジリながら太龍寺に登っていると言われていて
この石が太龍寺に着くと世界は泥海に沈むという伝説が残っているのです。
今も少しずつ動いているというのですが?!
こうした大きな自然の岩を使った石室もあります。
壊れているのが空しい…。
これは尾根ではなく人工の土橋。
丁石の材質についても説明がありました。
かも道の丁石は兵庫県産の「みかげ石」で
現在は国産のみかげ石は採掘できないので
石材としても大変貴重なもののようです。
今から650年ほども前にワザワザ兵庫県から大量に運び
加工して、この山道を運んで建立したという事から
この道に対する信仰の深さが読み取れます。
これは遍路墓。
昔のお遍路は命がけの旅で、お遍路さんは常に懐に遺書を忍ばせ
巡礼していたようです。
遺書には「行き倒れになった場合は、そこに墓を建てて下さい」
という内容が書かれていて発見した地元の方が供養したようです。
ちなみにウチには行き倒れたお遍路さんを今も供養しているお墓があります。
 丁石の形についても解説がありました。
あっ!今回、案内&解説して下さっているのは
阿南市文化振興課の向井さんです。
かも道の丁石は四角柱ですが元は平安時代に弘法大師が
木製の五輪塔卒塔婆を建てて目印にしたのが始まりとのことで
木製だと腐ってしまうので鎌倉時代に石の五輪塔卒塔婆になり
南北朝時代になって形が簡略化されて今のような形になったようです。
こうした解説を聞きながら今回は2時間半ほど
普通に歩けば2時間ほどで太龍寺に到着。
台風で壊れていた本堂の修復も終わり。
参加者全員で般若心経を唱え。
大師堂にもお参りし
最後に歩き遍路の会 会長の山下さんから貴重なお言葉をいただき
散会となったのでした。

こんな貴重な文化遺産がウチの宿の近くにあるのです。
加茂谷を活性化する観光資源として使おうじゃありませんか!!
ご希望の方にはガイド付きでご案内しますヨ!
阿南市のHPにも記事が掲載されてます。
最後まで見ていただき、ありがとうございます。